以前勤めていた会社で、課長になり、初めて管理職の仲間入りをした時、僕に対する周りの対応が急に変わったことを覚えている。
今まで親しく話していた同僚の一般社員の人たちからは距離を置かれるようになり、一方で、今まで苦手だった他部署の管理職の人たちからは、親しく声をかけてくれる機会が増えていった。
特に不思議な気持ちになったのは、先輩課長さんや部長さんたちとのコミュニケーションだった。
一般社員の前では強面キャラなのに、管理職メンバーだけになると「お互い中間管理職同士、仲良くやっていきましょう」的な、低姿勢な態度でコミュニケーションを取る人とかいて意外な発見が多かった。
生徒には決して見せることはない、職員室の先生の会話に参加する権利をもらったような、不思議な気分になったことを覚えている。もしくはプロレスラーの控え室とか。
管理職ってのは、たまたま会社から申し渡された配役であり、その役を演じるために会社から人事権や予算を当てがわれているにすぎない。僕は当初からそう考えていた。地位ではなく、配役なんだと。
しかし、管理職のキャリアが長く続くと、その状態が自分にとって当たり前の地位だと誤解していく場合がある。その役回りを演じていたつもりが、いつしか自分自身がその配役に同化してしまうのだ。(つまり自分はエラい、スゴいと勘違いしてしまう)
結果、その会社や地位を離れた後も、その役回りのまま周囲の人たちに接してしまって、社会とうまくやりとりできなくなる。最近問題になっているキレるお爺さんには、こんな背景があるような気がする。
先日読んでいた司馬遼太郎の小説の中で「位打ち(くらいうち)」 という手法が紹介されていた。
昔から日本で用いられてきた手法で、時の権力者が、敵対する新興勢力を自滅させるために、その人物にふさわしくない位階を次々と与えることによって、人格的な平衡感覚を失わせ、自滅させていく手法らしい。
この「位打ち」の使い手として有名なのが平安時代末期の後白河法皇で、その被害者の代表格は、平清盛であり源義経である。
おそらく源頼朝は、朝廷からの「位打ち」の手法によって、平家が没落していると分析していたと思うし、その勢力に代わって京に入った弟の義経も同じ術中にはまってしまったことを苦々しく思っていたと思う。
そして現在。サラリーマンの世界にも「位打ち」と同様の現象って存在するよなぁと、その本を読んで改めて僕は思った。現代の「位」は、所属している会社の看板であったり、その中での職位であったりすると思う。
「位打ち」が狙っている人間の弱さは、自己顕示欲である。
僕の場合、会社を辞める前の5年間くらいは、どうすればこの「位打ち」の弊害から自分自身脱却できるか、自分の中でいろんな試行錯誤をしていた時期だったように思う。
結果、僕はサラリーマンを辞め、一緒に働きたい仲間とゼロから自分で事業を創っていくという判断をした。
映画「マトリクス」で、主人公のネオが今までの自分がマトリクスの世界にいたことに気づくように、今の自分が「位打ち」によってはだかの王様になっていないか、定期的に棚卸しをすることは、これからの人生100年時代に必須な自己対話だと思っている。
今の自分は「位打ち」にハマっていないだろうか?
僕自身、これからも新しい「位打ち」の管が、首の後ろあたりに刺しこまれていないか、定期的に確認していくつもりである。(マトリクス的比喩)
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