ロジックというのは便利だけど、万能ではない。という話を書いてみたいと思う。
ロジックというのは、あらかじめ決められたルールの中で、物事を単純化することによって、問題をわかりやすくさせたり、関係者間で合意形成しやすくさせたりするために使われる「手法」である。
岡田斗司夫さんが「論理はレゴだ」という話をされているYou Tubeの動画を最近観て納得した。
僕なりに意訳するとこんな感じ。
論理的思考は、レゴである。仮説として使いやすいけど、問題を単純な要素にレゴ化していくことによって、デリケートなディティール(本来の大切な部分)が潰されてしまうことがある。
所詮、論理はレゴであって、本質を忠実に捉えることはできない。
ときおり、僕たちは論理的思考・至上主義に陥って、ロジカルに考えることで未来の「正解」を見つけようとする。
論理的に正しく思考し続ければ、必ず未来の正解が発見できるはずだと。
でも、あくまでロジックというのは、解像度の低いレゴで作った仮説であって、そこから正解をたぐり寄せようとしても、本当の未来を見つけだすことは難しい。
ロジックには、未来に対する間違った選択を間引く効果はあるけど、正解を生み出す機能は備わっていない。
例えば、新規事業について。
成功した事業について、後になってその成功要因をたどると、そこには成功したロジックがきちんとあったかのように見える。
しかし、当時、そういったロジックが果たしてどこまで存在していたのだろうか?
おそらく、ロジックより先に、創業者の個人的な「思い」があったはずである。
そして、そんな思いに共感したメンバーが集まり、行動が生み出され、行動の中から生まれた成功体験がロジック化されていく。
新規事業の成功というのは、だいたいそんな順番で構成されていくんじゃないかな、と僕は想像している。
物事をうまく進めていくには、思いの領域と、ロジックの領域のそれぞれを上手に織り交ぜていく必要があるんじゃないかと僕は考えている。
思いの領域とは、限りなくプライベートな感性の領域。
例えば、好き・嫌いといった感情であったり、自分の人生で育まれてきた価値観や道徳観。
ロジックの領域とは、他者と協調していくためのパブリックな認知の領域。
合理的に納得を得られる道理であったり、過去や現状の客観的事実から導き出される共通認識。
始めは、ほとんどが思いの領域で構成された新規事業が、成長とともに、ロジックの領域が拡大していく。
新規事業の「0→1」の部分が主に思いの領域から発生するとしたら、「1→100」の部分は主にロジックの領域から成長していく。
その後、成熟したロジックの領域が肥大化し、思いの領域とのバランスが崩れていくと、結果的にその組織を、保守的、前例主義的な組織に変質させてしまうこともある。
その場合、一人の個人が、思いの領域で提案する次の未来のアイデアを、論理的ではないという理由だけで、可能性の芽を摘んでしまうことがある。
そうなってしまうと、みんな論理的な自己防衛をするばかりで、誰ひとり、新しいことを始めない組織になってしまう。
もしかして、この国自体が今、そんな状態なのかもしれない。
そろそろこの話をまとめたいと思う。
ロジックというのは、他の人と協調しながら、物事を進めていく大人の世界では必須である。
ただ、それが全てではない。パブリックなロジックの領域とは別に、一人ひとりの人間の内側には、理屈では説明できない思いの領域が存在する。
すべてのスタートはいつもそこから始まり、そこはそもそもロジックで説明することはできない。
誰かに説明する義務もないし、理解してもらう必要もない。
新しい時代や新しい価値観は、いつも根拠のないひとりの人間のそんな思いからスタートする。
4年前に僕はそんな言葉を思いついて、それを公開してもOKなメモに書いている。
感性と論理。それらは決して一体化することなく、潮の満ち引きのような形で動的に存在し続け、この世界の形を常に変えていく。
そして、僕たちはいつも両者のバランスの中で辻褄をあわせながら、自分の人生のやりくりをしている。
もし、過去の僕たちが作ってきたロジックに僕たち自身が縛られて、次の一歩が踏み出せないでいるのなら、一度、自分の感性に従ってみるのがいいのかもしれない。